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2017年10月21日

第3回、第4回のゲストは…

国学院栃木高校・ラグビー部 女子部員
内海春菜子 キャプテン & 小西想羅 選手!
*7人制ラグビー。
 15人制の高校生の試合は、前後半30分の計60分で争われるのに対し、
 前後半7分の計14分で勝敗を決定する。
 人数は約半分にも関わらず、フィールドの広さは15人制と同じ、
 また、1日で何試合も行われるというハードな競技だ。

 4月5日に行われた、全国高校選抜女子・セブンズラグビーフットボール大会。
 国学院栃木は、あと1つ勝てば優勝というところまできた。
 しかし、この決勝戦に来るまで決して簡単な道のりではなかった。

 この日、朝から行われた予選リーグは1位で通過、決勝トーナメントにコマを進めるが、
 トーナメント初戦の石見智翠館高校戦は、26-26と同点。
 抽選により決勝戦進出が決まった。

 迎えた決勝の相手は、強豪・追手門学院高校。
 前半は追手門学院ペース。0-12とリードされ前半を終える。
 
 しかし、このハーフタイム、チームが弱気になることはなかった。
 「これまでも接戦だったのだから」「必ず逆転できる」。
 強い思いで後半を迎える。

 後半チームは主将の内海を投入。ここから、国学院栃木の追い上げが始まる。
 開始早々、小西想羅がトライ。
 秋山歩花がコンバージョンゴールを決め、7-12と追い上げる。

 試合終了間際、今度はその秋山がトライ。 ついに同点に追いつく。
 そして、これを決めれば逆転というコンバージョンゴール。
 秋山は決めた。 14-12、逆転に成功した。
 
 そしてホイッスル。
 
 国学院栃木が勝利した。

 予選リーグから接戦が続いた今大会。見事な逆転勝利で、初の日本一を手にした…

2017年10月7日

第1回、第2回のゲストは…

自転車ロードレース・ブラウブリッツェン (真岡工業高校)
小野寺慶 選手
*2015年6月、那須町で行われた全日本選手権。
 小野寺慶は当時14歳ながら、個人タイムトライアルU17+U15で優勝。
 2位に約40秒の差をつけての圧倒的勝利で、全日本チャンピオンに輝いた。
 中学生で手にした日本一。
 しかし、彼のロードレーサー人生でターニングポイントとなったレースは、
 その2か月後に走ったベルギーでのレースだった。
 
 日本と欧州で活動する、チームユーラシア-IRC(アイアールシー)。
 小野寺はこのチームに所属し、2015年8月、ベルギーで行われた
 ウェストフランデレン・サイクリングツアーに参戦した。
 小野寺の特徴は積極的な走り。
 数多くいる選手の中から抜け出す、いわゆるアタックを仕掛けていく。
 しかし、他の選手がこのアタックに反応し小野寺を追走、
 積極的なアタックが不発に終わることも多々あった。
 
 初の海外レースとなった3日間のステージレース。
 ここでも小野寺は持ち味の積極的な仕掛けで、レースを展開していく。
 するとこのアタックが成功、3日間のレースを終えて総合11位、
 2000年代生まれのトップ選手に与えられるベストヤングライダー賞
 いわゆる新人賞に輝いたのだ。
 ロードレースの本場、ヨーロッパでベストヤングライダー賞獲得。
 小野寺が確かな自信をつけた日となった…

[THE LEGENDS ATHLETE OF TOCHIGI]

2017年10月28日

第4回 駅伝 西田 隆維(にしだ りゅうい)

駅伝ランナー 西田 隆維。
1977年4月26日 栃木県足利市(あしかがし)に生まれる。
佐野日本大学高等学校に入学した西田は、高校2年次に全国高校駅伝に出場した。
1区を走り区間27位、 3年次は1区を区間36位と不本意な成績で終わった。

大学でも駅伝をやろうと思い、当時、箱根駅伝で中堅レベルの駒澤大学に進学。
当時、まだコーチだった 名将 大八木(おおやぎ)監督との出会いが、西田を大きく成長させた。

西田は、1年生で箱根駅伝に選出。しかし、ここでも結果は 3区で区間11位と
不本意だった。
大八木コーチの指導のもと、2年次に急激に成長、頭角を表した。
関東インカレ大会のハーフマラソンで2位でゴールする。

頭角を表した西田に、箱根での活躍が期待された。
しかし、またしても箱根では、区間7位と、納得のいかない走りで終わった。

大学3年目、三度1区を担当し、ついにトップから3秒差の区間3位で襷を渡す。
駒澤大学はこれで勢いに乗り、4区で先頭に立つと、8区までトップを走り続けた。
しかし、9区で順天堂大学に逆転を許し、
そのまま巻き返すことが出来ず、悲願の初優勝をあと一歩のところで逃してしまった。

優勝はお預けとなった4年生最後の箱根…西田は、復路のエース区間9区を任された。
今までの想いを胸に、最後の9区… 西田は、区間新記録で走り抜けた。
そして、駒澤大学が、念願の箱根初優勝を果たした。

4年連続で箱根駅伝に出場し、有終の美を飾った西田は、
大学卒業後、ヱスビー食品に入社。
箱根駅伝から1年、23歳にして
「別府大分マラソン」で、2時間08分45秒の好タイムでフルマラソン初優勝。
箱根から世界へ!と活躍が期待されたが…
2001年の「エドモントン世界陸上」フルマラソン9位を最後に、
度重なる故障に悩まされ
2009年2月の「別府大分毎日マラソン」で現役引退を決意。

「結局、引退するまで、納得のいく結果を出すことができませんでした…。」

現在 西田は、俳優 そして「西田ランニングくらぶ」代表として、
市民ランナーを指導したり、ランニングのイベントを開催し、
マラソンの普及活動を行う…

2017年10月21日

第3回 卓球 平野 早矢香(ひらの さやか)

女子卓球ロンドンオリンピックの銀メダリスト、平野早矢香。
1985年3月24日、栃木県鹿沼市(かぬまし)に生まれた。
両親が卓球をやっていたのがきっかけで、幼稚園の5歳の時にラケットを握る。
最初はラケットでボールを打つことも出来なかったが、
ラリーが続くようになったら、どんどん卓球に夢中になっていった。

小学校時代、練習に励み、勝つことの楽しさを知り頭角を表すと、
同年代で卓球のトップになりたいという気持ちが芽生えた。

小学生ながら、「トップを目指す環境はここにはない」と感じ、
親元を離れ、レベルの高い環境へ移ることを決意する。

宮城県の仙台育英学園秀光(しゅうこう)中学校、仙台育英学園高等学校に進み、
高校1年生で全日本卓球選手権・ジュニアの部で優勝、初の全国タイトルを手にした。

高校卒業後は、ミキハウスに入社。すぐにジュニア日本代表入りを果たした。

18歳で「全日本卓球選手権」初優勝。
翌年は、圧倒的な強さで連覇し、その後、通算5回の優勝を飾った。

2008年 北京オリンピック、2012年 ロンドンオリンピックと
卓球・女子日本代表に選出。
ロンドンで 福原愛(ふくはらあい)、石川佳純(いしかわかすみ)と組み、卓球で日本男女初となる銀メダルを獲得した。

ロンドンの後、「リオを目指す」と記者会見で公言するが、
若手の台頭により世界ランキング10位から、19位に降格。
日本人女子上位5番手となり、3大会連続のオリンピック出場は叶わなかった。

2016年4月9日をもって現役を引退した平野、
現在はコーチなど選手の育成に取り組んでいる…

2017年10月14日

第2回 日光アイスバックス 福藤 豊(ふくふじ ゆたか)

日本人で唯一のNHLプレーヤー福藤豊。
ポジションは、ゴールキーパー。
1982年、北海道釧路市に生まれた福藤は、小学3年でアイスホッケーを始める。
中学時代に全国優勝。卒業後、宮城へ単身移り住み、東北高校に進学。
U-18世界選手権・世界ジュニア選手権などに出場し、
3年生の時、アイスホッケー界で、高校生初の日本代表に選ばれた。

高校卒業後の2000年春、コクドに入社し、
当時の日本のアイスホッケーのトップリーグ「日本リーグ」でプレーした。

翌年には、渡米しNHL下部3部リーグのチームにて1年間プレーし、
再びコクドへ戻り、日本リーグ、全日本選手権で優勝。
ともに最優秀GK賞を獲得し活躍を見せた。

2004年、再びNHLドラフトで、ロサンゼルスキングスより指名を受け渡米、
開幕は3部リーグでのスタートだったが、その才能が認められ、
2部リーグに昇格しプレーする。
そして3年目の2006年12月、NHLへ昇格を果たし、
ついに、日本人初のNHLデビューを飾った。

スーパーセーブでゴールを守り、その後の試合で先発も含め、4試合に出場。
低迷するチーム事情から、キャリアのある選手を補強する流れで
福藤の出場機会が減ってしまった。

2009年に活躍の場をヨーロッパへ移し、オランダやデンマークでプレー。
2010年に帰国し、アイスホッケー日本のトップリーグ「アジアリーグ」に所属する、
栃木日光アイスバックスに入団。
デビュー戦では、スーパーセーブを連発し観客を魅了した。

「NHLに入団した時が、自分のスタートだと思って正直嬉しかったし、
ずっとこのポジションにしがみついてプレーしたいと思った。」
「小さい時は、アイスホッケーが大好きで、毎日一生懸命に練習していました。」

現在も守護神として、栃木のゴールと、日本代表として日本のゴールを守り続けている…

2017年10月7日

第1回 栃木ブレックス 田臥 勇太(たぶせ ゆうた)

日本人初のNBAプレーヤー田臥勇太。
昨年2016年に誕生した、日本バスケットボールのトップリーグ
「B.LEAGUE」初代王者 栃木ブレックスのポイントガードを務める中心選手である。

1980年 横浜市で生まれ。
中学時代、バスケットボールの全国大会 優勝は逃したが、全国に名をとどろかせた。
その後、故郷を離れ 名門秋田県立能代工業高校に進学。
1年時からレギュラーを勝ち取り、前代未聞の高校3年間3冠の完全制覇
9冠という偉業を成し遂げる。

高校生で日本代表に選出、世界ジュニア選抜にも選ばれた彼は、
数多くの日本の有名大学のオファーを断り、バスケの本場アメリカへの留学を決意した。


将来、NBAでプレーを目指すことを考え、英語力を身につけるために
名門とはいえないハワイの大学に留学。
しかし、バスケの出来ない葛藤の日々を過ごした。

留学3年目…バスケに打ち込むために退学を決意。そして帰国した。


2002年、当時の日本のバスケットボールトップリーグJBLに所属する、
トヨタアルバルクに入団。
プロとしての第1歩を踏み出した。
ルーキーだが、開幕戦からシーズン全試合に出場し大活躍。
オフに再びアメリカに行き、NBAの試合を観戦した田臥は、
改めて自分の目標を再確認した。

1年でチームを退団し、なんの宛てもないまま、自らの夢への挑戦のため、
再びアメリカに渡った。そして…

NBA「デンバーナゲッツ」の練習に参加し、日本人初となる
NBAプレイヤー誕生かと、日本中が期待した。

そかし、2003年シーズンの開幕戦登録メンバーに田臥の名前はなかった。
突然の監督からの解雇通告。
1度目のチャレンジはかなわなかった…。

そのままアメリカで頑張ることを決意し、NBAを目指す選手が数多くプレーする
独立リーグに入団、そこで たくさんの刺激を受けた。

そして翌年、ついにNBA「フェニックス・サンズ」の開幕メンバーに選ばれた。
日本人初のNBAプレヤーの誕生だ。


11月3日の開幕戦。試合終了まで残り10分の第4クオーターで、
ずっと夢見ていたNBAのコートに田臥が立った。

デビュー戦を7得点という華々しい記録で飾り、
その後4試合に出場し、チームも連勝していたが、
強豪選手補強のため、またしても突然の解雇通告。

しかし、あきらめずに独立リーグに入団。
田臥は活躍し、優勝争いの立役者となった。


アメリカから帰国した田臥は、2008年に、リンク栃木ブレックスに入団。
チームの中心選手となり、日本トップリーグでブレックスを2度の優勝に導いた。


「自分は決して日本のトップ選手ではないです。」

「自分は、身長も173センチと小さいですし、みんなに無理だといわれた。
 NBAの挑戦は、みんな最初から無理だと決め付けて挑戦しないだけです。」

「夢をあきらめずに挑戦し、努力た結果、今があるんです。」

「あの独特の世界感は、世界のトップリーグに挑戦した人間にしか分からないものがあります。」

「皆さんも、あきらめず、決め付けずにチャレンジしてみて下さい。」


田臥は、現在も栃木だけではなく日本のバスケットボール界の発展に貢献し続けている。

今年も2017-18シーズンが、9月30日に開幕した。

日本のバスケットボールのトップリーグ「B.LEAGUE」初代王者 として、
栃木ブレックスの、2連覇という目標に向かって、田臥勇太は全力で走り続ける…

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