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[THE LEGENDS ATHLETE OF TOCHIGI]

2017年12月16日

第11回 プロ野球選手 石井 琢朗(いしい たくろう)

1970年8月25日、栃木県佐野(さの)市に生まれる。
小学3年生から野球を始めた石井の将来の夢は、「巨人にドラフト1位で入ること」だった。
夢への近道と、県内屈指の強豪校、栃木県立足利工業高等学校に入学。
1年生から、エースとなり、2年生の時には甲子園に出場した。
そして1988年の秋、ドラフト外で、現在の横浜DeNAベイスターズ、
当時の横浜大洋ホエールズに入団。

高卒1年目の4月に、プロ野球初登板で初勝利。
プロ入り4年目の1992年より、自身の希望で投手から野手に転向。
同時に、名前も 石井忠徳(ただのり)から、石井琢郎(たくろう)に変更した。

2009年、広島東洋カープに移籍、新天地でも活躍したが
2012年に現役を引退。24年間の選手生活にピリオドを打った。

現役時代、走攻守の三拍子そろった内野手として活躍した石井は、
盗塁王や、ゴールデングラブ賞、ベストナインなど数々のタイトルをとった。
4度のゴールデングラブ賞に輝き、「送球までの速さと安定感は12球団1」とまで
言われた。

通算358盗塁を記録しており、4度の盗塁王を獲得。
打撃では、歴代11位の2432安打を記録し、史上34人目の2000本安打を達成。
名球会入りも果たした。

引退後は、広島東洋カープのコーチに就任。
選手の意識を改革することを重要視するコーチングで、
「打撃とは形がないもの。正解はない」という持論がある。

プロになってから、投手から野手に転向しただけに、プロで教わったことは多い。

「転向した当初、打撃はもちろん走塁、守備も全部、1から教えていただいたので、
コーチの影響力はすごくありました。」という。

石井がコーチに就任してからの広島は、打率、得点力が目に見えて上がった。
そして今年、広島のコーチを退任する最後のシーズンは、
各選手個人の頑張りもあってチームとしていい結果を残せた。

実績が認められた石井は、来シーズンから、東京ヤクルトスワローズのコーチを務めることが決まった。


石井流育成の今後に、野球界からの期待が高まる…

2017年12月9日

第10回 柔道家 海老沼 匡(えびぬま まさし)

柔道五段。
ロンドンオリンピック、リオオリンピック と、共に66キロ級で銅メダルを獲得した
海老沼は、1990年2月15日、栃木県小山(おやま)市に生まれた。
5歳の時に、2人の兄の影響で、野木町柔道クラブで柔道を始め、
中学生になると、上京し柔道の名門塾「講道学舎(こうどうがくしゃ)」に所属。
中学3年で、全国中学校柔道大会66級優勝。
高校2年で、アジア大会ジュニアの部優勝と、めきめきとその才能を発揮する。
2008年明治大学に進学。
1年次には、世界ジュニア、嘉納杯で3位。
2年次には、ユニバーシアード、講道館杯、IJFワールド柔道ツアー、
グランドスラム東京2009で優勝。
3年次に、体重別で優勝。 世界選手権は3回戦出場。
4年次には、体重別で二連覇。 世界選手権では、昨年3回戦で敗れた相手に
決勝戦で一本勝ち優勝、リベンジを果たした。

大学を卒業後は、吉田秀彦(よしだひでひこ)が監督を務める、パーク24に就職。
その年に開催されたロンドンオリンピックの代表の座を勝ち取り、
オリンピックに臨んだ。

金メダルが期待された初めてのオリンピック…
しかし、これまでの世界大会と空気が違い、悔しくも銅メダルに終わった。
翌年、2013年に行われたグランプリ、世界選手権では、再び優勝し連覇。
そして2014年も、グランプリ、世界選手権で優勝、3連覇を果たした。
2015年、世界選手権で、一本負けを喫し4連覇を逃し、
グランドスラムでは、決勝で日本人選手に完敗。

2016年、グランドスラムで、優勝。選抜体重別では、日本人選手にまたもや完敗。
負け方があまりにもひどいと、一度オリンピック代表取り消しの審議になったが、
実績を考慮し、リオデジャネイロオリンピック代表に選ばれた。

この時の会見では、
「五輪の借りは五輪でしか返せない。4年間が無駄でなかったことを証明したい」と
コメントし、リオデジャネイロオリンピックに挑む。

柔道が大好きな、目標を持った子どもで、低学年の頃から将来の夢は
「オリンピックの金メダル」と言っていた海老沼。
しかし、またもや準決勝 終盤で逆転負けをし、金メダルの夢は絶たれた。
それでも、3位決定戦では、背負い投げで一本勝ちを収め、
2大会連続の銅メダルを獲得。

今年4月からは、所属チームのコーチも兼ねることになった海老沼は、
6月に、リオデジャネイロオリンピック以来10ヶ月ぶりの試合となる実業団体3部
に出場すると、総監督の吉田秀彦などと共に活躍しチームの優勝に貢献した。


現在、IJF世界ランキング31位。
今後も、試合に出場し、選手として夢を追い続ける…

2017年12月2日

第9回 ソフトボール 増渕 まりこ

1980年1月24日、栃木県宇都宮市に生まれる。
小学生の時からバレーボール部に入るなど、スポーツが好きだった増渕は、
中学生になると、ソフトボール部に入部した。
当時から、「サッカーでも陸上でもなんの競技でもいいので、オリンピックに出たい」
という夢をいだいていた彼女は、スポーツに強い白鷗(はくおう)大足利高等学校に入学。
ソフトボールで、インターハイ、国体、アジアユースなど、
大きな大会で優勝を経験する。
そして、次第にオリンピックへの夢は、現実の目標に変わっていった。

エースとしてチームを勝利に導くため、学校での練習を終えて家に帰ると、
父親とピッチング練習や、1人で壁にボールを投げたりと、地道な努力を重ねた…。

1998年、東京女子体育大学に入学。
4年連続 インカレで優勝。世界選手権にも出場。そして2000年…
シドニーオリンピック日本代表として、夢のオリンピックの舞台に立った。

「マウンドに立って、緊張の中、一球目を投げた瞬間…
小さな頃の夢が叶ったと、本当に実感しました。」

増渕にとって、夢のオリンピックの舞台は、
意外にも 緊張はなく嬉しさしかなかったという。

「全く打たれる気がしなかった。むしろ 金メダル獲るぞ!」と、楽しく試合に臨めた。

決勝戦で格上のアメリカに敗れてしまったが、銀メダルを獲得した増渕は…
「ここまで結果を残せたのは、陽南中のチームメイトと、
監督の熱い情熱があったお陰だとつくずく思います。」と振り返る。


大学を卒業後、実業団チーム「デンソー」に入社した増渕は、
世界選手権で優勝するなど、数々のメダルを獲得し、
2010年から、スポーツ指導員兼務の投手として活動。

その後、大学ソフトボール部のコーチ、監督を務める傍ら
全国でピッチング教室などを開催し、ソフトボールの普及活動を行なっている…

2017年11月25日

第8回 マラソンランナー 赤羽 有紀子(あかば ゅきこ)

1979年10月18日、栃木県芳賀町(はがまち)に生まれる。
中学1年生から陸上を始め、地元真岡(もおか)女子高校から城西(じょうさい)大学に進学。
大学でメキメキと頭角をあらわし、
1999年、ユニバーサヒアードでハーフマラソンで銀メダル。
2001年の北京ユニバーシアードでは、10,000mで銅メダルを獲得。
また、「全日本大学女子駅伝」では、4年連続区間賞も獲得。

大学卒業後、北海道の実業団チームに入った赤羽は、
大学時代の同級生で同じく陸上選手の浅利周平(あさりしゅうへい)と結婚。
この結婚を機に引退を決意していたが、競技継続の声に応え、選手継続を決めた。

夫・浅利周平をコーチに迎えた2005年11月、5,000mで
日本歴代4位の好タイムをマークし、日本の女子トップ選手へと成長した。


翌、2006年には女児を出産。
産後も選手として競技を続け、ママさんランナーとして注目される中、
2007年11月、国際千葉駅伝で日本代表に選出。
日本代表のアンカーで、女子マラソン世界記録保持するケニアの選手を抜き、逆転優勝。

さらに勢いは増し、2008年3月の全日本実業団ハーフマラソンでは、
野口みずきの記録を破り大会新記録で優勝。
その後も、日本陸上競技選手権の女子10,000m、女子5,000mで共に2位に。
そして、「ママさんランナー」としては日本陸上競技界で史上初の
北京オリンピック代表入りを決めた。

しかし、北京オリンピックで納得のいく走りができなかった赤羽は、
2009年1月の大阪国際女子マラソンで、フルマラソンに初挑戦。
積極的に先頭に立ちレースを引っ張ったが、後半、渋井陽子(しぶいようこ)とのマッチレースに
最後まで着いて行けず、結果、渋井に2分近くの差をつけられ2位となった。

ゴール後の赤羽は「楽しかった。」と満足そうな笑顔で語った。

初めてのフルマラソンを楽しめた赤羽はその後、
仙台国際ハーフマラソン、日本陸上選手権女子10,000mで、連続初優勝。

しかし、「ママさんランナー」として、競技と子育ての両立は、甘いものではなかった。


その後「世界陸上ベルリン大会」をはじめ、数々の世界大会、国際大会を走ったが
結果が安定せず、苦しい時間も過ごした。
それでもコーチで夫の浅利(あさり)周(しゅう)平(へい)と二人三脚で走り続け
2011年1月、「大阪国際女子マラソン」に出場し、
5度目のマラソンで念願の初優勝を果たした。


2014年、所属のホクレンが「大阪国際女子マラソン」での撤退を表明したことを機
に、赤羽も、引退レースとして出場。
結果は、日本人トップで2時間26分の2位でゴール。
レース後、優勝選手のドーピングが発覚し、赤羽が繰り上がり優勝。
有終の美を飾った。

ラストランを終えて、「達成感があって満足している」と選手生活を振り返る赤羽は、
現在、1児の母として育児する傍ら、
「今後は、走る楽しさを伝えたい」と、陸上競技の普及活動を行っている…

2017年11月18日

第7回 宇都宮ブリッツェン 鈴木 真理(すずき しんり)

全日本選手権優勝、2度のアジアチャンピオン、国内ツアー戦年間総合優勝3回、
そして2004年アテネオリンピック代表…。
数々の輝かしい実績を持つ、日本ロードレース界のレジェンド、鈴木真理。

そんな鈴木真理の選手生活は今、混迷を極めている。
その発端となったのは、2012年。
トレーニング中の落車によって大腿骨(だいたいこつ)を骨折。その治療過程においてできた血栓(けっせん)は、
一度は消え去ったと思われたが、着実に彼のカラダに根を張っていた。
投薬によって血栓が溶ける可能性、手術によって血栓が改善される可能性、
あらゆる可能性にかけて治療に取り組んできた鈴木真理だったが、
状態が改善することはなく、続くレースに出られない日々。
そして今年10月、ついに「来シーズンは宇都宮ブリッツェンと契約しない」
という決断が下された。


「結局、ロードレースは最終局面に残れないと意味がありませんし、
 いかに余力を残した状態でスプリントに挑めるかがすべて。」

15歳で自転車競技を始めて28年…
宇都宮に来て5年、大黒柱として、チームのキャプテンとして
若いチームを引っ張ってきた。

「次のシーズンに走れるかわからない状態の中、ブリッツェンと契約させていただいて
…プロ選手として救われました。」
「ブリッツェンには感謝しかありません。5年間本当にありがとうございました。」

今シーズンいっぱいをもって選手契約をやめる意志を伝えたのは、鈴木真理からだった。
10月21日、赤いジャージを着て走る最後のレース
「ジャパンカップ・クリテリウム」では、最後のスプリント賞をもぎ取った。

来シーズンの予定は決まっていない…
それでも鈴木真理は前だけを見つめる。

「引退しようとは思っていません。血栓の治療を続けて、回復の具合を見て
レースに復帰するつもりですし、復帰して“勝ちたい!”という気持ちも
まだまだ衰えていませんから」


レジェンドの挑戦は、終わることはない…

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