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川島明 そもそもの話 17:00~17:55
2024/4/20 17:50/感謝カンゲキ雨嵐/嵐
私が四歳半の時、母が他界し、途中継母との生活もあったが、
十九歳で一人暮らしをするまでの大半を祖母に育ててもらった。
団地住まいで質素な生活だった。
家族4人のその日の夕食と次の日のお弁当のおかず、
朝食の食パンを1000円で収めるという暮らしぶりだった。
そんな中、祖母とスーパーの帰りに二人でこっそり食べたお好み焼きや、
お豆腐屋さんのわらびもちは、格別幸せな時間だった。
祖母が好きだったネスカフェのゴールドラベルのインスタントコーヒーも
一緒に飲むようになり、祖母と過ごす、心穏やかな時間のおかげで、
母のいない寂しさや不安を感じることはほとんどなかった。
修学旅行の朝、外まで見送りに出てくれ、
「大きなったね。おかあさんに見せてあげたい。」と涙ぐみながら
背中をそっと撫でてくれた。その時の祖母の骨ばった手から、
今まで注いでもらっていた愛の温度を直に感じた。
泣きそうになりながら後ろ手で手を振り、その場から逃げるように
学校に向かった。
はっきりと一度、そんな祖母を傷つけてしまったことがある。
家庭科実習で、忘れ物をし、祖母に届けてもらった時だ。
私と同じように、忘れ物をしたクラスメイト2人と、
校門で待っていた。
息を切らしながら届けてくれた祖母から、忘れ物のお米を受け取ると、
「はよ帰って」と祖母に背を向けてしまった。
この時初めて、今まで「母がいない」ということを平気そうにしていた
自分に気がついた。
クラスメイトに家庭のことを知られたくなかった。
祖母には謝ることもできず、ささくれのままだ。
大人になって見返した保育園のアルバムおなかに、芋掘りを一緒にしてくれている祖母を見つけた。
母がなくなってすぐのようである。一張羅のベージュのスーツを着た祖母の優しく包み込むような微笑みがあった。
私にとって祖母は母だった。そしてマザーテレサのような存在、愛そのものであった。