Big Earの今日もオレ流!
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佐藤 望
佐藤 望
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2011年4月28日  0:00
陽春の日光を走る「マロニエラン」!
春に日光を駆け抜ける伝統の
クラシックカーイベント
『マロニエランin日光』が今年も
4月23日、24日に日光を舞台にして
開催されました~。

昨年は、初日、雪模様の天気でしたが
今年は~雨降りの寒い日でした。
雨女がいるのでは?昨年から司会を担当している須賀ちゃんか?
という疑惑が巻き起こる中、それでも雨なんてものともせずに
全国から集まった43台のクラシックカーが元気よく
走りました。オーナーさん達もオジさんが多いのですが
パワフルですね~家族同様に大事にしているクルマたち。
ボディもキレイだし、メンテナンスもきっちりとしていて
深い愛情を感じます。

今年は、TochigiBMWさんのご協力で、取材カーとして
『BMW X1』をお借りしました!
雨降りのいろは坂も4WDでしっかり路面をとらえ
ドライバーに安心感を与えてくれます。
ハンドリングも良さはさすがBMW!
運転する楽しさを与えてくれます。
走りはもちろん、なによりサイズがちょうどいい!
SUVはあまり興味がなかったけど、立体駐車場にも入るサイズは
取り回しもいいし、かなり惚れました!
しかも、燃費がいいので最近の技術力は凄い!
2日間付き合って、欲しいクルマに巡り合った感じです。
お世話になったTochigiBMWの津田さん、江口さん
ありがとうございました。

2日目は、中禅寺湖から足を伸ばして、雪の残る金精道路を山間ドライブ~。
山桜もキレイだし、雪景色の山並みを走るのは気持ちいいですよ~
GWにオススメのドライブコースです!


2011年4月25日  0:00
庭のハナミズキが咲きました。
今年は、慌ただしい春の訪れでした。

ゆっくり、サクラの花見もできませんでした。

そんな中、ふと庭のハナミズキを見たら

満開に咲いていました。

15年ほど前、庭職人に半ば強引に勧められ

猫の額ほどの小さな庭に植えた、赤いハナミズキ。

あまり陽の光も当たらず、厳しい環境の中

いつもは、少ししか花を咲かせなかったのですが

今年は、可憐な赤い花を満開に咲かせています。

逆境にも耐え、それでも逞しく咲く姿に

こんな時期だからこそ、何か教えられたような

気がします。

震災でゆっくり庭の眺める事もなかったけれど

しばし、癒されました。

2011年4月13日  0:00
東日本大震災あれからやく1ヶ月。岩手、宮城県を取材しました③
盛岡市で一泊して、10日の日曜日。
昨日までの雨も上がり
すっきりとした春の青空が広がります。
まだ雪をかぶった雄大な岩手山が
盛岡市民を癒し、そして大きなエールを
おくっているようにも思います。

盛岡市を後にして、東北自動車道を南下。
やはり道路状況は悪く50キロ規制。所々に亀裂を
修復した痕があり、段差では車体も大きく
上下したりと、極めて慎重な運転が要求されます。

若柳金成インターで降り、宮城県南三陸町へ。
テレビでも数多く放送されている被災地。
町民の半数以上と連絡が取れず
約1000人が遺体で見つかった町です。
豊穣の海ということもあり
美味しい三陸の海産物で有名な観光地でもある
この町も、壊滅的な被害を受けていました。
がれきが3階建ての屋根に残るコンクリートの建物。
海沿いにある4階建てのマンションはすべて
津波に飲まれ、外観だけが残っています。
いつもならキレイな海が見える
優雅なマンションだったんでしょう。
入り組んだ湾になっているこの場所まで、
まさか津波が押し寄せるとは誰が想像できたでしょうか。
津波直後にはこのマンションの屋上で救助を待つ
人たちが寒い中一夜を越したそうです。

その後、三陸自動車道から仙台東道路で仙台方面へ。
石巻市などからの救援物資を運ぶトラック、炊き出しの
車両などが多くなり、かなりの渋滞の中、
仙台東部道路を経て名取市へ向かいました。
平野が広がる米処ですが、途中から左に見える
海沿いからの光景が一変します。
津波が押し寄せた後は、田畑に散らばる一面のがれき、
砂なども混ざり、ここはどんな場所だったのか?
想像できない状況です。
家屋も津波に飲み込まれ10号線の道路も
多くの漁船が流されています。
高台もない平野が広がる地域では、
どれだけの人が避難できたんだろうか?
三陸沿岸とは全く違う被害状況です。
岩沼市の仙台空港も一時は1300人が孤立する
津波の被害に合いましたが、米軍の努力もあって
もう離発着ができるぐらいに回復していました。
人間の力はすごい!もう日も西に傾き、
滑走路に光るライトが、希望の光のように見えました。
夕暮れはとても美しい地域です。
被害を受け破壊された街並みを、何もなかったかのように
ゆっくりと夕焼けが染めていきます。

2日間で回った岩手県と宮城県の被災地。
陸前高田市に入った瞬間に、
言葉を失う光景は一生忘れないでしょう。

あまりにも広すぎる被災地の姿に、
いったいどうすればいいのだろう。
傍観者の無力さに、心が折れそうにもなります。
これじゃ何もできなんじゃないか?絶望感すら感じました。
でも、多くの被災した方々や地元のメディアの方の話を
聞くにつれて、何か少しでも進んでいかないといけない。
そんな思いに変わりました。
復興へは、想像を超えたとても長い時間と労力が必要です。

今、「頑張って!」という言葉は、本当に薄いかもしれません。
被災地は、今、頑張って歯を食いしばって
必死に耐えているんです。
僕たちは、これからの長い復興への道のりを、
決して忘れずに、今、自分にある仕事や役割、
やるべきものがある事の幸せを感じて、
できる事から地道に少しずつ、
一緒に進んでいくことではないでしょうか。



2011年4月13日  0:00
東日本大震災あれから約1か月。岩手、宮城を取材しました②
大船渡市を後にして、さらに北上。
新日鉄釜石で有名な釜石市へ。
沿岸部は壊滅。大きな工場なども崩れ落ち、
どうしたら撤去できるのか?想像すらできません。
港には、長さ70m以上の大きな貨物船が、
何か巨人によって
ひょいと持ちあげられたかのように、
埠頭に乗りあげています。
見ることがない船底もあらわになり、
津波はどれだけの力をもっているのか
ただただ圧倒されます。
しかし、傍らでは自衛隊員が懸命に
鉄骨を集め撤去に従事しています。
でも、このあまりにも広大な被災地では
10万を投入している自衛隊員の姿も、
ほんの一部なのです。
この光景を元に戻すにはいったい、
どれだけの労力と時間がかかるのか?
とても長い道のりが待っています。

大槌町。町は壊滅。町長を含め1万人が
行方不明になった場所。
津波が襲ったあと、住宅のプロパンガスや
灯油タンクが次々に爆発して町は、焼け野原に
なっている個所も多くあります。
赤茶けた光景は、ここは戦場なのか?
と思うほどこれまでとは別の光景が広がり、
なんとも言えない焦げたにおいがまだ残っています。

友人のFM岩手ディレクターの実家がある山田町。
以前、海水浴で訪れたキレイな三陸の街は、
同じような惨状でした。
さらに北上して宮古市へ。
時刻は6時を回りあたりも暗くなってきました。
ここは津波が高さ10の堤防を越えて街を飲み込んで
いったそうです。
住宅3200棟が倒壊。中心部の街並みは電気も点いて
普段通りの風景が広がっているような印象ですが、
物資は少なく、ひっそりしています。

宮古市から国道106号線で盛岡へ。
到着した頃は、もう夜の9時を回っていました。
震災時は震度5強でしたが、街は大きな
被害はなかったそうです。
スタジオも無事でした。
エフエム岩手の友人、中村ディレクターと再会。
さすがにやつれた表情でした。
被災地情報に追われた1カ月近くを振り返り、
同じラジオマンといして様々な情報を聞きました。

「これから残された人間として、できるだけの事を
 していきたい。
 まわりから沢山の支援をいただき、本当に感謝している。
 その気持ちを胸に、一歩一歩進んでいくしかない。」

あまり多くを語らない東北人の気質。
でも、そこには決してあきらめずに時間がかかっても
前に進んで、なんとしても復興させる強い決意がありました。

2011年4月13日  0:00
東日本大震災 あれから約1か月。岩手、宮城を取材しました。①
東日本大震災から、1か月経とうとしている4月9日
僕も、3年半アナウンサーとして勤務していた
盛岡市のエフエム岩手を訪ねる事にしました。
道中、以前取材で訪れた三陸沿岸の被災地を回り
この目で、どんな状況なのかを確かめたいと思いました。

本当は、取材を終えて、この状況を伝えるべきか
どうか迷いました。それだけ、これまでの取材現場とは
あきらかに違った場所であり、自分の力量で
伝えることができるのか?悩みました。
でも、FM岩手の中村ディレクターからは
「ぜひ、この現実を沢山の人達に知ってもらいたい。
 一緒に、復興へ向けて少しでも力を貸して欲しい」
との言葉から、あえて今回の取材をありのままに
伝えようと思いました。
現実の映像は辛いものばかりです。
それぞれ、いろんな考えがあるのは当然だし
批判されるかもしれません。
それでも、現実から目を背けないで、
それぞれが考える事も
大事だと思います。


雨模様の宇都宮を6時に出て、東北自動車道を北上、
一関インターで降りて
太平洋側の陸前高田市に向かいました。
一関市も8日の大きな地震の影響で停電している個所が多く、
国道もかなり亀裂などが入っていて損傷しています。
途中寄ったコンビニには、まだ物資が少なく食べ物は
ほとんどありませんでした。

山間の国道を進み、陸前高田市に入って海に
近付くにつれて見た景色は、目を疑う光景でした。
まだ海岸から7キロ地点のまったく
海など見えない山に囲まれた集落が、
がれきの山となり、一見大丈夫そうな残った家も
1階部分はすべて浸水していて、
住民の方々は清掃に追われていました。
ここが、津波の最終地点だったのです。
なぜ、ここまで津波が押し寄せたのか?
想像を超える津波が近くを流れる気仙川を登り
押し寄せたそうです。
そして、海岸へ進むに連れて広がるのは、
18年前に訪れた大きな街、陸前高田市が
まったく表情を変え廃墟と化した
市街地が広がっていました。
この光景を伝える言葉が僕の中にはありませんでした。
まさに虚無感です。
市街のほとんどが水没し、7割以上の世帯が
波に飲み込まれたそうです。
自衛隊の方の懸命な復旧作業によって、かろうじて
道は通れるようになっていますが、他はまったくと
いっていい程そのままの惨状です。
まるで、大きな怪物にでも破壊されたような
強固なはずの防波堤や防潮堤も破壊されていました。
そして広がるのは、いつものような穏やかな三陸の海。
ここに想像をはるかに超えた津波が押し寄せたとは
現場に立っていても、本当に信じられない思いです。
海沿いでは、がれきの中から何かを探している親子を
見かけましたが
僕は、この時、声をかける事ができませんでした。

それから、北上し、大船渡市へ。
ここも、水産加工場の大きな建物が広がる
豊かな漁港の面影はまったくありません。
高台は難を逃れた家屋もありますが、ライフラインが
途絶えたままの個所も多く厳しい生活が続いています。
半壊の家屋には、スプレーでマークがしてあり、
救助隊が確認したという暗号のようなものが書いてあります。
山形県からの救援隊の文字、USAと書かれた場所には
アメリカの救援隊が来たのでしょう。

流された家の跡で、何かを探している年配の男性に
お話を聞きました。

「撤去が始まる前に、家族の遺影を探しに来たが見つからない。
 まだ、このがれきの中にも見つかっていない遺体が
 多いだろう。
 長年、海と共に生活してきた。チリ地震もあったし
 津波に対する対策は身を持って感じていたがそれを
 はるかに超える津波だった。
 海や津波が憎いとは今は言えない。
 海があったからこそ繁栄してきた街。
 住む場所は高台がいいが、復興したらまた
 この場所でまた仕事を続けたい」

この想い。正直に感動しました。
あれだけの被害があったけれど、この海の存在は
僕たちの想像するものとはまったく違うものなのです。


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