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[THE LEGENDS ATHLETE OF TOCHIGI]

2018年1月20日

第16回 ボート・パラリンピック 駒崎 茂(こまざき しげる)

1962年、埼玉県川口市生まれる。
2003年、41歳の時にバイクで交通事故にあい、両足を失う。
リハビリと、ダイエットのために水泳を始めると
「自分の障害は決して重くない。」と、気づき、大会に出ることを目標に練習に打ち込むようになった。

「水の中では義足も使わずに魚のように泳ぐことができるということが嬉しくてのめり込んでいきました。」

栃木県には、障害者の水泳クラブチームが無く、茨城県のチームに所属する決意をした。
幸運にも、そのクラブには、パラリンピックのメダリストが2人もいた。
そんな恵まれた環境で練習するうちに、競技として練習するようになり、
いつしか、「北京パラリンピックを目標に」と、水泳に打ち込んだ。

急速に進歩を遂げた駒崎は、2006年、初めて出場した全国障害者スポーツ大会で
優勝!その後、栃木県初の障害者水泳チーム「栃木とびうお」を結成した。

平泳ぎでパラリンピックを目指していた駒崎だったが、
2008年の北京パラリンピック出場を逃し、水泳での再挑戦は年齢的に厳しいと感じていた。
2011年、新たな競技、パラローイングという、障がい者向けのボート競技に出合う。
この競技は、1000メートルの直線で速さを競い、ボートの先端がゴールラインに
到達した順番で勝敗が決まる。
駒崎は、二人で漕ぐダブルスカルで、17歳年下の有吉利枝(ありよしりえ)選手とタッグを組み、
2014年韓国の仁川(インチョン)アジアパラ競技大会で銀メダルを獲得した。
そしてついに、リオで開催される「パラリンピック」の出場権を獲得した。

海外の大会で筋力の差を強く感じた駒崎は、リオまでは、食べて筋力をつけるトレーニングに徹した。リオに出場出来ない仲間の分まで頑張るために、とにかく死ぬ気で練習した。

そして迎えたリオパラリンピック…結果は12位だった。
改めて「世界との差」を痛感した。

「3年後の東京までに選手発掘と普及を同時に進めないと」
リオは、あくまで通過点。
2019年は、茨城国体。2020年には東京にオリンピック・パラリンピック。
そして、2022年には、ホーム・栃木国体が開催される。
そこを最終ゴール目標に、家族をパワーの源に、
「苦しい練習をして、練習で、出来ないことは本番では出ない。1日も無駄に出来ない。
 59歳までは現役で頑張ります」 と、ストイックに練習に励んでいる!

2018年1月13日

第15回 2017年ドラフト.オリックス1位指名 プロ野球 田嶋 大樹(たじま だいき)

1996年8月3日、宇都宮市に生まれる。
7歳の時に、友人の誘いで、宝木ファイターズの投手として軟式野球を始める。
中学生になると、クラブチーム 鹿沼ボーイズにて、硬式野球を始めた。

その才能は早くも開花し、中学3年生の夏、日本代表に選出。
世界選手権に出場し、銅メダルを獲得した。

高校は佐野日大高校に入学。
1年からベンチ入りし、2年生 春の関東大会からは背番号1を付けて活躍した。
3年の春のセンバツ1回戦では、最速145キロを記録し、5安打無四球、12奪三振で完封勝利を挙げ、準決勝まで勝ち進み、ベスト4に。

2試合連続の延長戦などで疲労こんぱいで、
「一瞬、心が折れたて、初めて『本当に無理だ。もう代えてくれ』と思った」と
準決勝を振り返る。
そして3年の夏、甲子園 栃木県予選の決勝・作新学院戦に登板。
左脇腹の炎症で5回1/3を2失点で途中降板。
チームは敗退し、春夏出場を逃した。

検査の結果、大事には至らず、8月には練習を再開。
「ドラフト1位候補」騒がれたが、本人の意思で、社会人チーム JR東日本でのプレーを希望し入団。
複数のプロ野球チームのスカウトから引き合いがあったが、
「まだ自分にプロは早いのかなと思いました。高校3年間は、けがばっかりだったので、
まだプロでやる能力はないです。まだ力不足なので、前から社会人でやりたいと思っ
ていた」と固い決意だった。

田嶋は…「社会人でしっかりトレーニングを積み、3年後から20年できるような
 プロ野球選手になりたい。
 プロに一番近いと思っているリーグで環境も整っている。しごかれると思うので覚悟の上で
 社会人野球にいきます」と語った。

社会人1年目から公式戦で登板。
2015年アジア選手権、2016年 第1回U-23 W杯、2017年アジア選手権と、
日本代表で出場。
順調に成長して、日米各球団スカウトが、目をつける存在になった。

2017年のドラフト会議は10月26日に行われた。
早稲田実業高校の清宮幸太郎選手が注目されたが、
オリックスのスカウトは、田嶋選手を1位指名した。

プロに行くなら、1位指名。と決めていた田嶋は、念願かない、オリックスと入団契約。

2018年シーズンのプロ野球での活躍に期待したい!

2018年1月6日

第14回 車いすバスケットボール 増渕 倫巳(ますぶち ともみ)

車椅子バスケットボール 2012年ロンドンパリンピック日本代表の増渕は、
1977年2月12日、栃木県宇都宮市に生まれた。

栃木県立宇都宮南高校に入学した増渕は、バスケットボール部に入部した。
2003年4月、高速道路でトラックに追突させて、脊髄損傷。
車椅子生活を余儀なくされた。
何とか、社会復帰を1日でも早くと前向きに考えリハビリに取り組んでいた
そんなある日、リハビリセンターで車椅子バスケと出会った。

「障害者になったからこそ、できることをやろう」と心に決め、
栃木レイカーズにて、車椅子バスケットボールを始める。

やるからには、日本代表を目指してと、練習に励んだ。
しかし、始めた当初は、自分より重い障害の選手にも競り負け、
シュートもゴールまで届かなかった。

通常の練習日意外にも自宅周辺などで、毎晩夜中までストイックに苦しい練習を重ねた。
競技を始めて5年目、ついに『北京パラリンピック』の代表候補として招集された。
しかし、最終選考でメンバーから漏れて、目標であったパラリンピックに出場することはできなかった。

しかし、折れずに、その悔しさをバネに練習を重ね、
2010年、車椅子バスケットボール世界選手権大会、広州アジアパラリンピックに
日本代表として出場。
さらに、自分の力を試すため、日本No.1クラブチーム「宮城MAX」に移籍。

仕事をしながら、週末は仙台にという生活をして、
2012年には、念願の『ロンドンパラリンピック』に日本代表として出場を果たした。


…正直、アスリートとして、東京パラリンピックも目指したい気持ちはあるが
今まで、自分のやりたいことをやらせてもらって、妻と娘の家族を犠牲にしてきたので、今度は、家族のためにできることをしていきたい。
もちろん、次への挑戦も考えている。

増渕は、競技と両立する為、再び地元・栃木レイカーズに戻り、地元の為にと活動を開始。


今、若手の育成と、車椅子バスケの普及に取り組んでいる…

2017年12月30日

第13回 マラソン 渋井 陽子(しぶい ようこ)

1979年3月14日、栃木県那須塩原市に生まれる。
黒磯市立共英小学校、黒磯市立厚崎中学校を卒業。
小学校の時から運動が得意で、マラソン大会はいつもトップであった。
中学時代からは、陸上部に所属し本格的に陸上を始める。
1994年、陸上競技の名門、栃木県立那須拓陽高等学校に進学。
高校総体では、大会新を出すなど、国体や全国高校駅伝でも活躍した。
高校を卒業し、1997年三井住友海上火災保険に入社し、女子陸上部に所属。

最初は、トラック競技を中心に活躍した渋井は、
2001年1月の「大阪国際女子マラソン」で、初マラソンでいきなり
2時間23分11秒の当時初マラソン世界最高記録を達成して初優勝。
その年の「世界陸上エドモントン大会」女子マラソン代表に選出された。
初の「世界陸上大会」では、4位入賞。
2002年、アメリカの競技会に1000mで出場し、日本新記録で優勝。
2004年のアテネオリンピックの出場を目指すが、出場は叶わず。

そして2008年北京オリンピックを目指して再び奮起した渋井は、
大事な選考レースで結果を残せず、北京オリンピックも出場が叶わなかった。

その後も、2012年のロンドンオリンピック出場を目指し、チャレンジしたが、
またしても、ケガなどにより出場が、みたび叶わず。

ロンドンオリンピック後は、現役選手兼三井住友海上女子陸上部の
プレーイングアドバイザーに就任し、
2016年4月には同陸上部の選手兼ヘッドコーチに転任。

2013年以降、マラソンでは好成績を残せなくなったが、
リオデジャネイロオリンピック女子マラソン国内選考レースで4位。
20年連続の出場となった全日本実業団女子駅伝へ出走したり、
地元のマラソン大会には、練習を兼ねて飛び入り参加するなど、
38歳の現在も現役でレースに出場をしている。


周りの選手達は、みな彼女のことを、「裏表のない性格で、明るいくて、面白い人」、「人望があり、人気者」と語る。


今後もマラソンランナーとして、また若手の育成にと、活躍に期待したい…

2017年12月23日

第12回 女子サッカー 安藤 梢(あんどう こずえ)

「なでしこJAPAN」の サイドバックや、サイドハーフで活躍した安藤は、
1982年7月9日、栃木県宇都宮市に生まれた。

父親の影響で幼い頃からボールを蹴り始め、小学生、中学生時代を、
地元のクラブチーム「河内(かわち)サッカークラブジュベニール」に所属。
小学6年生の時には、全国大会で優勝。安藤自身も大会MVPを獲得した。

中学を卒業すると、栃木県立宇都宮女子高校に進学し
1998年、高校1年生の冬に アメリカで開催された国際大会に
U-18日本代表として出場。
翌1999年6月26日、FIFA女子世界選手権のノルウェー戦で
高校2年生ながら、A代表デビューを果たした。

2000年、全日本女子ユースサッカー選手権大会準優勝で、輝かしい高校時代を終えた。

高校を卒業後、筑波大学に進学した安藤は、女子サッカー部に所属したが、
男子サッカー部の練習にも参加して、日々練習に励んだ。
2002年、さいたまレイナスFCに入団。
入団初年度から出場機会を与えられ、シーズン終了後 Lリーグ新人王を受賞した。
2003年、北朝鮮の大邱(てぐ)で開催されたユニバーシアードで銀メダル。
そして2004年、アテネで開催されたオリンピックに、なでしこジャパンとして出場。日本女子サッカー初の決勝トーナメントに進出、ベスト8の成績を残した。

一方国内リーグでは、2004年度と2009年度で、リーグ優勝、リーグ最優秀選手、
得点王となった。



2006年には、浦和レッドダイヤモンズ・レディースとプロ契約。
その後の安藤の活躍は華々しく、アジア競技大会 、 FIFA女子ワールドカップ、
東アジア女子サッカー選手権 、AFC女子アジアカップ、北京オリンピックなどで
女子日本代表のレギュラーとして定着、なでしこジャパンとして上位の成績に貢献した。

2009年12月、活躍の場所をドイツ・ブンデスリーグ1部の
「FCR2001デュースブルク」に移し、海外に拠点を移した。

海外で経験を積んで迎えた2011年、
日本サッカー界初のFIFA女子ワールドカップ優勝を果たし、日本中に感動を与えた。

その後も、ロンドンオリンピック 準優勝、
フランクフルトで、UEFA女子チャンピオンズリーグ優勝に貢献するなど、
数々の偉業を成し遂げる安藤だが、
シーズンオフには、浦和レッズのジュニアユースチームの練習に参加して、
子供たちに夢を与え続けている。

子供たちとの触れ合いを通して「いつかは海外での経験を日本に…」と
考えるようになった安藤は、今シーズン、古巣の浦和レッズレディースに拠点を戻した。

人一倍負けず嫌いな性格と、真面目で準備など基本を大切にする性格の安藤。
日本女子サッカー界のパイオニアとして、これからもまだまだボールを追い続ける…

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