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[THE LEGENDS ATHLETE OF TOCHIGI]

2017年11月18日

第7回 宇都宮ブリッツェン 鈴木 真理(すずき しんり)

全日本選手権優勝、2度のアジアチャンピオン、国内ツアー戦年間総合優勝3回、
そして2004年アテネオリンピック代表…。
数々の輝かしい実績を持つ、日本ロードレース界のレジェンド、鈴木真理。

そんな鈴木真理の選手生活は今、混迷を極めている。
その発端となったのは、2012年。
トレーニング中の落車によって大腿骨(だいたいこつ)を骨折。その治療過程においてできた血栓(けっせん)は、
一度は消え去ったと思われたが、着実に彼のカラダに根を張っていた。
投薬によって血栓が溶ける可能性、手術によって血栓が改善される可能性、
あらゆる可能性にかけて治療に取り組んできた鈴木真理だったが、
状態が改善することはなく、続くレースに出られない日々。
そして今年10月、ついに「来シーズンは宇都宮ブリッツェンと契約しない」
という決断が下された。


「結局、ロードレースは最終局面に残れないと意味がありませんし、
 いかに余力を残した状態でスプリントに挑めるかがすべて。」

15歳で自転車競技を始めて28年…
宇都宮に来て5年、大黒柱として、チームのキャプテンとして
若いチームを引っ張ってきた。

「次のシーズンに走れるかわからない状態の中、ブリッツェンと契約させていただいて
…プロ選手として救われました。」
「ブリッツェンには感謝しかありません。5年間本当にありがとうございました。」

今シーズンいっぱいをもって選手契約をやめる意志を伝えたのは、鈴木真理からだった。
10月21日、赤いジャージを着て走る最後のレース
「ジャパンカップ・クリテリウム」では、最後のスプリント賞をもぎ取った。

来シーズンの予定は決まっていない…
それでも鈴木真理は前だけを見つめる。

「引退しようとは思っていません。血栓の治療を続けて、回復の具合を見て
レースに復帰するつもりですし、復帰して“勝ちたい!”という気持ちも
まだまだ衰えていませんから」


レジェンドの挑戦は、終わることはない…

2017年11月11日

第6回 競泳 萩野 公介(はぎの こうすけ)

1994年8月15日 栃木県小山市(おやまし)に生まれる。
日本の競泳界を引っ張る存在となった萩野公介が、初めて水泳に触れたのは
生後わずか6か月。母親と楽しむ“ベビースイミング”がきっかけだった。

その後、小学校低学年から学童新記録を更新し、中学以降も各年代の新記録を樹立した。
作新学院高校3年の夏、17歳で初出場となったロンドンオリンピックでは
400m個人メドレーで銅メダルを獲得し、一気にトップアスリートの階段を駆け上がっていった。
東洋大学1年の夏、バルセロナで行われた世界水泳でも多種目に出場し、
マルチスイマーとしてその存在感をアピール。
2016年 リオデジャネイロオリンピックでは
400m個人メドレーで金メダル、200m個人メドレーで銀メダル、
4×(かける)200mフリーリレーで銅メダルを獲得し、快挙を成し遂げた。


日本人のアスリートは世界の選手に比べて小柄だ。萩野も身長177センチ。
世界大会のスタート台に立つと身長190センチの選手の中では華奢に見えてしまう。しかし彼の強さは、水中ドルフィンキックのスピードを生み出す強いバネと、
水中から体が浮いているように見える抵抗が少ない泳ぎ。
激しくストロークしているのにとても優雅に見える。


天性の才能でサクセスストーリを駆け上がる萩野。
しかし、大きな挫折も経験した。
大学3年の夏、ロシアで開催された世界水泳、直前合宿先のヨーロッパで
ひじの骨折という事故にあい、まさかの欠場。
選手生命の要であるひじの骨折はその後、萩野選手を苦しめる。

リオオリンピックで3つのメダルを獲得した翌年、
大学卒業後プロとして初めて臨んだ世界水泳ブタペストでは苦戦を強いられた。
「金メダルを取りに行く」と宣言した200m個人メドレーでは、辛くも銀だった…。

リオオリンピック後に行った肘の手術の影響で、冬場の泳ぎ込みが出来なかった萩野。
その他のレースでも結果が出せず、萩野自身が特に思い入れのある800mリレーでは
5位という結果に人目もはばからず泣き崩れた。

日本の競泳界を引っ張っていくエースとしての重圧に潰されそうになっている萩野に
チームメイトは「一人で背負うな」と、声を掛け合った。

帰国後、萩野はこう語った…
「競泳は個人競技だけど、ひとりじゃない。みんなと闘っているんだ。」


萩野はこれからも進化し続ける…

2017年11月4日

第5回 サッカー 上野 優作(うえの ゆうさく)

1973年11月1日、栃木県真岡市(もおかし)に生まれた上野は、
真岡高校時代に「全国高校サッカー選手権大会」に出場し、優秀選手賞に選出された。
その後、筑波大学に進学して、
1992年、アジアユース日本代表に選出。
1993年、ユニバーシアード日本代表に選出。
1995年、夏季ユニバーシアードでは、FWのスタメンとして出場、
しかし準決勝の前半戦…早い時間帯で、相手選手と小競り合いを起こして
1発退場となった。
チームは勝利し、決勝に勝ち進んだが 出場停止処分を受けた上野は、
決勝戦のピッチに立つことが出来なかった。

この大会、日本チームは優勝を果たしたが、
日本代表のエースストライカーとして期待を背負っていた上野は、
未練だけしか残らなかった。

大学卒業後の1996年、J1のアビスパ福岡に入団し1年目からレギュラーを獲得。
そしてサンフレッチェ広島、京都パープルサンガで活躍し
2003年、アルビレックス新潟では、日本人最多のシーズン13ゴールを挙げ
新潟のJ1昇格に貢献した。

悲願のJ1昇格を決めたこの日、
試合前から上野は 『何か違う…』と強く感じたという。

42,223人のサポーターに埋め尽くされたスタジアム、
上野にとっては、見慣れたいつもの光景であったが、
その予感は的中、彼らの応援が乗り移ったかの様な、魂のこもったゴールで
J1昇格を決めた。

その後 再び広島でプレーし、2007年、かねてからオファーを受けていた地元チーム
栃木SCへ移籍。 2008年…JFLからJ2昇格に貢献した。

京都、新潟、そして栃木と…数々のチームを昇格させてきた上野優作。
学生時代に取り返しのつかない 悔しい思いをした日本のエースストライカーは、
いつしか「昇格請負人」と呼ばれる選手となっていた。

栃木SCがJリーグに昇格したこの年、選手としての13年間に幕を引き、
地元栃木で引退を決めた。


2009年、栃木SCのフロント入りし その後、アカデミーディレクター、
ユース監督、そしてトップチームのヘッドコーチも務めるが、
成績の低迷と 厳しいチーム状況の中、ヘッドコーチを辞任。

「地元チームで貢献したかったが、現体制では厳しかった」
「いつかは栃木SCに戻ってチームに貢献したい」と語り、チームを去った。

それでも「大好きなサッカーに関わっていたい」という願いが叶い、
J1浦和レッドダイヤモンズ の育成部門コーチに就任。
2016年からは、浦和レッドダイヤモンズ ユースコーチとして
未来の日本代表を育てている…

2017年10月28日

第4回 駅伝 西田 隆維(にしだ りゅうい)

駅伝ランナー 西田 隆維。
1977年4月26日 栃木県足利市(あしかがし)に生まれる。
佐野日本大学高等学校に入学した西田は、高校2年次に全国高校駅伝に出場した。
1区を走り区間27位、 3年次は1区を区間36位と不本意な成績で終わった。

大学でも駅伝をやろうと思い、当時、箱根駅伝で中堅レベルの駒澤大学に進学。
当時、まだコーチだった 名将 大八木(おおやぎ)監督との出会いが、西田を大きく成長させた。

西田は、1年生で箱根駅伝に選出。しかし、ここでも結果は 3区で区間11位と
不本意だった。
大八木コーチの指導のもと、2年次に急激に成長、頭角を表した。
関東インカレ大会のハーフマラソンで2位でゴールする。

頭角を表した西田に、箱根での活躍が期待された。
しかし、またしても箱根では、区間7位と、納得のいかない走りで終わった。

大学3年目、三度1区を担当し、ついにトップから3秒差の区間3位で襷を渡す。
駒澤大学はこれで勢いに乗り、4区で先頭に立つと、8区までトップを走り続けた。
しかし、9区で順天堂大学に逆転を許し、
そのまま巻き返すことが出来ず、悲願の初優勝をあと一歩のところで逃してしまった。

優勝はお預けとなった4年生最後の箱根…西田は、復路のエース区間9区を任された。
今までの想いを胸に、最後の9区… 西田は、区間新記録で走り抜けた。
そして、駒澤大学が、念願の箱根初優勝を果たした。

4年連続で箱根駅伝に出場し、有終の美を飾った西田は、
大学卒業後、ヱスビー食品に入社。
箱根駅伝から1年、23歳にして
「別府大分マラソン」で、2時間08分45秒の好タイムでフルマラソン初優勝。
箱根から世界へ!と活躍が期待されたが…
2001年の「エドモントン世界陸上」フルマラソン9位を最後に、
度重なる故障に悩まされ
2009年2月の「別府大分毎日マラソン」で現役引退を決意。

「結局、引退するまで、納得のいく結果を出すことができませんでした…。」

現在 西田は、俳優 そして「西田ランニングくらぶ」代表として、
市民ランナーを指導したり、ランニングのイベントを開催し、
マラソンの普及活動を行う…

2017年10月21日

第3回 卓球 平野 早矢香(ひらの さやか)

女子卓球ロンドンオリンピックの銀メダリスト、平野早矢香。
1985年3月24日、栃木県鹿沼市(かぬまし)に生まれた。
両親が卓球をやっていたのがきっかけで、幼稚園の5歳の時にラケットを握る。
最初はラケットでボールを打つことも出来なかったが、
ラリーが続くようになったら、どんどん卓球に夢中になっていった。

小学校時代、練習に励み、勝つことの楽しさを知り頭角を表すと、
同年代で卓球のトップになりたいという気持ちが芽生えた。

小学生ながら、「トップを目指す環境はここにはない」と感じ、
親元を離れ、レベルの高い環境へ移ることを決意する。

宮城県の仙台育英学園秀光(しゅうこう)中学校、仙台育英学園高等学校に進み、
高校1年生で全日本卓球選手権・ジュニアの部で優勝、初の全国タイトルを手にした。

高校卒業後は、ミキハウスに入社。すぐにジュニア日本代表入りを果たした。

18歳で「全日本卓球選手権」初優勝。
翌年は、圧倒的な強さで連覇し、その後、通算5回の優勝を飾った。

2008年 北京オリンピック、2012年 ロンドンオリンピックと
卓球・女子日本代表に選出。
ロンドンで 福原愛(ふくはらあい)、石川佳純(いしかわかすみ)と組み、卓球で日本男女初となる銀メダルを獲得した。

ロンドンの後、「リオを目指す」と記者会見で公言するが、
若手の台頭により世界ランキング10位から、19位に降格。
日本人女子上位5番手となり、3大会連続のオリンピック出場は叶わなかった。

2016年4月9日をもって現役を引退した平野、
現在はコーチなど選手の育成に取り組んでいる…

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